ヒマラヤを仰ぎ見る古都カトマンズ探訪・アンナプルナ山群展望ハイキング・
釈迦生誕地ルンビニ訪問8日間
〜ネパールの8つの世界文化遺産全てを訪ねる8日間〜
2003年12月31日(水)〜04年1月7日(水)
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カトマンズ・バクタプール・ダーバースクエアー(世界文化遺産)を探訪する。 |
長野県、松本市並びにマスコミ各社そして市民の皆様のご協力を得て、松本市民をはじめとする12名が参加し、2003年12月31日(水)から2004年1月7日(水)に実施致しました。 参加者一行は、白銀のヒマラヤを展望しながら、ネパールの8つの世界文化遺産全てを訪ね歩き、日本の文化との深いかかわりに感銘を受けながら、松本市と姉妹都市カトマンズ市との友情を深める市民交流の責任も果たして参りました。 皆様の事業へのご理解ご協力に感謝申し上げます。 |
2003年12月31日早朝AM4:30、松本市民をはじめとする12名により、松本を貸切バスで出発。穏かな日よりの31日の大晦日、高速道路を順調に走り、関西国際空港には、AM10:00に到着。ここで、大阪府堺市からの参加者を含めた12名が全員合流し、AM11:45発の上海経由の直行便、ロイヤルネパール航空で憧れのネパールへ向け日本を出国する。機窓からは、雲海の切れ間に、離れ行く日本の沿岸が望まれる。 ネパール現地時間PM6:30、既に陽が沈み、灯火に照らされたカトマンズ空港に飛行機は着陸する。空港では、カトマンズ市役所並びにMHC支部より花輪で歓迎され、この夜、カトマンズ王宮前通りのシェルパ・ホテルに長旅で疲れた体を休める。 |
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カトマンズ市役所より花輪で歓迎 |
ネパール料理を味わう一行 | |
2004年1月1日、世界最高峰エベレスト8848mを望むマンテンフライトの為、早起きしてAM6:30朝食のテーブルに着く。日本から持ち寄ったお屠蘇で新年を祝う。白む朝がきても、古都カトマンズの街は、濃い霧に煙っている。AM8:00カトマンズ国内飛行場へ向う。空港内には、世界中から予想外に大勢の人達が集まっていた。 霧が晴れたAM11:00、私達は小型飛行機に乗り込み、飛び上がるとすぐに世界の屋根ヒマラヤの大展望に胸を躍らせた。7000m級のランタン、ジュガールヒマール、ロールワリンヒマールの純白の山群が目に飛び込んで来た。 |
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マウンテンフライトの小型飛行機に乗り込む。 |
1月1日、世界最高峰エベレストを望む | |
機内では、身を乗り出し、カメラの撮影に忙しい。パイロットの窓前方にカンチェンジュンガが望まれ、左方向にエベレストはじめ8000m峰4座を控えるクーンブヒマールの大山群が我々を圧倒する。 西からチョオユー(8201m)、若い頃の植村直巳さんが登ったゴジュンバカンU峰(7646m)、長野県山岳連盟が初登頂したギャチュンカン(7951m)、数々の登頂エピソードを持つエベレスト、ローツェ(8516m)、マカルー(8463m)、そして前衛の6000m級の無名峰。小一時間のフライトは、新年を迎えた私達への最高級の贈り物だった。
この日の昼食は、世界文化遺産に登録されたカトマンズのダーバースクエアー(旧王宮前広場)を一望する建物のベランダで味わう。付近一帯はハヌマンドカと称され、多くは14世紀から18世紀までの建物や寺院が建ち並んでいる。昼食のベランダと道を挟んで聳え立つバサンタプールは、木造9階建、31mの高さがあり最も大きい。大きな屋根を支える方杖にはシバ神とパールバティ神妃の男女媾合像が彫られ、最上階の窓に風鈴が吊り下げられている。私達は、ビールで喉を潤しながら、古都カトマンズの中世の世界に暫し酔う。 PM3:15カトマンズ市中央公民館に2003年10月より任命されたカトマンズ市長・ケシャブスタピット氏へ表敬訪問を行う。大事な会議を中断し、私達の訪問を温かく迎えてくれた。旧友を温める市長とMHC理事長の挨拶の後、参加者一人一人が自己紹介するとスタピット市長は各人へ丁寧に応対していた。夕食はカ市が招待し、ネパール料理をご馳走するとの約束を再確認して、30分程で訪問を終える。 |
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カトマンズ・ハヌマンドカ周辺を歩く |
森羅万像を見通す仏陀の目を持つ、ストーパ様式の 仏経寺院スワヤンブナート | |
夕方、私達一行は、カトマンズの西の小高い丘に、2000年前に建造されたストゥーパ様式の仏教寺院、世界文化遺産のスワヤンブナートに向う。車で到着すると、「モンキーテンプル」と別名呼ばれているように猿が多い。猿の体は小柄で、人には悪戯はしないようだ。中央に建つストゥーパの四面には、森羅万象を見通す仏陀の目が描かれ、前面に仏像を配した多くの小塔群が建ち並んでいる。この場所から東の方向には、夕日に照らされたカトマンズ市街が広く望まれ、遠くロールワリンの峰々が、薄紅色に輝いていた。 |
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願いを込めて、灯明を灯す |
夕日に照らされたカトマンズ市街 | |
夜、カトマンズの異人街と呼ばれるタメール地区の有名ネパール料理店「タメール・ハウス」で、カトマンズ市役所主催の夕食会に、参加者全員とMHCカ支部長らが招かれる。店の4階の最上階には、ローソクの灯に照らされた席がもうけられ、副市長らが既に待っていた。スタピット市長は、少し遅れてやってきた。席に着くや否や、酒器を自ら手に取り、ネパールの焼酎ロクシを得意げに、全員の盃に注ぐ。市長が来席してから酒宴が盛り上がった。2時間余、ロク酒とウイスキー、ネパール料理に舌鼓を打ちながら、日本語とネパール語、英語が飛び交い、カトマンズの事を語り合い、友人達と親交を深める事が出来た。 |
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焼酎ロクシを注ぐスタピット・カ市長 |
カトマンズ市主催の歓迎夕食会の出席者、カ市長・副市長・部長らと記念撮影 | |
1月2日、朝霧の中、世界最大級のストゥーパを擁した仏教寺院、世界文化遺産ボド・ナートへ向う。AD500年には、建造されていたという。既に朝早くからヒマラヤ各地から多数の巡礼者が訪れていた。巡礼者は、最下部の基壇を右回りに歩き、外周に連なる700個のマニ車を右手で回し、数珠を手に「オンマニペメフム」と呟くように経文を唱え、あるいは全身を地面に投げ五体投地をする人、基壇にはめ込まれた仏像の前に座り込みお経を読む人、様々な方法でお祈りを繰り返している。 私達も基壇上部に昇り、右周りに廻ってみる。最上部の金色の尖塔から、大宇宙を表わす黄、緑、赤、白、青の五色のタルチョーが、万国旗のようにはためいていた。外周囲には、明治時代、真の仏教を求めネパール、チベットを訪れた河口慧海の功績を称えるレリーフが壁に嵌め込まれていた。ネパールの人達にとって、彼の人柄の印象が、日本人へのイメージになっているという。先人達に学ぶべき事が多い。 |
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ボトナートの基壇を廻る巡礼者 |
朝の霧に霞む、世界最大級のストーパ様式の仏教寺院ボドナート | |
次に、ボド・ナートから数キロ南に位置する、聖なるガンジス川の源流部をなすパグマティ川のほとりに建つ、世界文化遺産パシュパティナートを訪ねる。ここは、ネパール最大のヒンズー教寺院、破壊神シバ神を祀る。毎年2月シバラットリ祭には、インドからの巡礼者も多く、沐浴する姿も見られる。石橋を渡った対岸には、シバ・リンガム(男根)を祀った白い小堂が100基以上群立している。寺院の下流部の焼場では、煙が立ち昇り、遺体が荼毘にふされていた。 |
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白い小堂が群立するパスパティナート |
陰と陽の合体が自然界の繁栄とする、リンガム(男根)とヨニ(女性自身)の合体石像 | |
遺体は、井桁に組んだ薪に載せられ、米藁を被せて火葬される。骨灰は川に流され、それが至福とされる。ネパールの85%以上のヒンズー教徒には、お墓は無い。帰路、西側の土産店の間を通過する時、大声で騒ぎながら十数名の一団が通り過ぎていった。 彼等の肩には、花で飾られた遺体が担がれていた。昨日か今朝亡くなったのだろう。今日のうちに荼毘され、骨灰になり、川に流されるのだろうか。ヒンズー教も仏教も、古代インドのバラモン宗教から発し、同様に輪廻転生を信仰する。 PM4:00過ぎ、カトマンズから空路、ネパール第二の都市ポカラへ飛ぶ。既に太陽は西に傾き、美しいランタンヒマールの山群は薄紅色に輝き始めていた。豪快に聳えるマナスル(8163m)の白峰を横切り、壮麗なアンナプルナU峰(7937m)が近づいてくるとポカラ空港に着陸する。 |
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カトマンズ空港からポカラへ向かう |
機窓からの豪快なマナスルの白峰 | |
空港には、MHCカ支部の会員パサンギャルゼンが風邪気味の面持ちで待っていた。彼は、エベレスト山麓のナムチェバザール出身。旅行代理店の仕事でポカラに家を構え、 ポカラ周辺のトレッキングや、旅行の世話をしている。一度MHCの招待で松本に来てもらった事がある。彼の手配で、私達一行は、2台の車に乗り込み、今日の宿サランコット(1667m)頂上近くに建つホテルに向う。 既に夕闇が迫り、エンジンを唸らせながら登って行くと、眼下にポカラの街の灯りが点滅し、ヒマラヤの水を湛えるペワ湖の湖面が鈍く輝いている。しばらく行くと陽もすっかり落ち、車のライトだけが頼りのでこぼこ道の闇夜を走る。ヒマラヤ山中に永遠に迷ってしまうのだろうかと戸惑いながら、我慢も限界に達した頃、アンナプルナ・シェルパホテルに到着する。 ホテルでは、私たち一行が貸切の状態だった。私達が着くやいなや、食事がふるまわれる。皆、安心したのか、ウィスキー、ビールを飲み、ネパールの民謡レッサンピリリの音楽に合わせ、食堂で踊り回る。窓を開け、更けて行く夜空を見上げると、満天の星が輝いていた。
1月3日AM6:00起床、ホテルで用意してくれた温かいミルクティーで目を覚ます。曙の空は快晴、ホテルの主人のリードでサランコットのピークを目指す。このピークは、街から比較的近くにあり、アンナプルナの大展望を得られることで有名だ。皇太子浩宮様もネパール訪問の際、登られたピークだ。ホテルからは20分程で到着。麓からもピークを目指して、暗いうちからたくさんの人達が登って来ていた。 アンナプルナは、古代インドのサンスクリット語で「豊穣の女神」を意味する。1950年フランス隊によって、アンナプルナT峰(8091m)が登頂され、「人類はじめての8000m峰登頂」のニュースが世界中に広まり、8000m峰登山ラッシュが始まった。東西80km、西のカリガンダキ河と東のマンシャンディ河との間に、白銀の屏風を連ねている。 |
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朝陽に輝くアンナプルナT峰(8091m)《中央奥》 |
紅色に染まるアンナプルナU峰(7937m)《右》 | |
東の空が橙色に輝き、夜明けの荘厳な儀式が始まろうとしていた。アンナプルナT峰、U峰(7937m)のピークを、薄桃色から紅色に染めながら刻一刻と陽が昇る。アンナプルナV峰(7555m)の雪稜そしてマチャプチャレ(6993m)の山肌も朝陽に照らされて輝き始めた。私達の立つサランコットのピークは、深い谷を隔て、アンナプルナの大パノラマが手を伸ばせば届くほど近くに眺望できる、すばらしい大展望地だ。 ホテルに帰り、屋上のベランダにテーブルを並べ、遅い朝食を摂る。輝くアンナプルナ大山群をおかずに、焼いたパンとミルクティーがメニューだ。もちろん大きな卵焼きも付いている。帰路は小一時間、おだやかな日よりの山路を降りる。アンナプルナ山群の連なる東方に白銀のマナスルの峰が聳えている。その姿に「ありがとう」と思わずお礼を言う。皆、大満足の展望ハイキングだった。 |
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サランコット・ピーク全員登頂 |
輝くアンナプルナを望む朝食 | |
昼頃、ポカラ空港から16人乗りのチャーター便で、インドとの国境近くのバイラワ空港へ向う。飛来すると白銀のヒマラヤの峰が後方に遠ざかっていく。眼下には波のようにうねる山々が広がっている。飛行機は、低く垂れこめた雲の海の中へ降下すると、しばらく視界が真っ白になる。その雲の中を抜けると、緑の農地が見え、バイラワ空港への着陸態勢に入った。手に汗握る私達乗客は、パイロットの操縦技能にあらためて感嘆した次第だった。 バイラワ空港からほど近いホテル・ニルバナに荷物を置き、昼食にアンナプルナ・シェルパホテルで作ってくれた幕の内弁当(これはうまい!)を食べ、PM1:30早速お釈迦様の生誕地ルンビニに向う。豊かな農耕地を抜け、両脇にマンゴーの木が植えられた道路を車で走り30分で到着。ルンビニに近づくと、インド、チベットから修行僧の団体が大勢集まっていた。私達も車を降り、いよいよお釈迦様の生誕地に入る事とする。 |
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ルンビニに残る釈迦誕生を記す遺跡 |
マヤ王妃と釈迦誕生を表した石像 | |
今から2500年以上前、シャカ国のマヤ王妃が実家に出産の為帰省する途中、このルンビニの花園でマヤ王妃が真紅の花に手を伸ばした時、ゴータマ・シッダールタ王子が誕生した。現在存する池は、マヤ王妃が沐浴した池といわれている。マヤ王妃は、出産後7日目に死亡する。 シッダールタ王子は、シャカ国のカピラ城で青春時代を過ごし、人間が「生老病死」の苦からどう逃れられるかと苦悶し、北門から出た時、修行者に出会い"悟り"の世界があることを知る「四門出遊」。29歳で出家し、6年の修行の後、35歳の冬のある日、大きな菩提樹の下で悟りをひらき"仏陀"となったといわれています。 かたよらない精神(中道)で、あわれみの心(慈悲心)をもって、正しい生き方(八正道)をすれば、人々はみな救われる(万民救済)という教えを説いています。 お釈迦様は、その後45年間各地を説法して廻り、出生地ルンビニの方に向って旅に出かける途中、クシナガラの近くで食中毒にかかり、死期を予感する。沙羅双樹の下、頭を北に西をむいて横になり、弟子達には、「生あるものは、かならずほろびる。」「宇宙の真理、法をよりどころとして生きていくように。」と説いて、静かに生涯を閉じる。(入滅する又は涅槃=ニルバナ【サンスクリット語】ともいう) その教えは、多くの弟子達により受け継がれ、教えを整理して結集されたのが、今も伝わる仏教の経典である。仏教は、アジア各地に広がり、日本には6世紀半ば朝鮮半島を経て伝えられ、飛鳥時代の仏教文化が花開き、この教えが今日でも私達日本人の心の中に、深く生き続けている。 私達は、公園の中心部に徒歩で向う。正面に発掘したマヤ堂(BC3)の遺構を囲む白い大きな建物が新しく建っていた。周囲には、マヤ王妃が沐浴した池、マウリヤ王朝(BC4〜BC3)第三代目のアショカ王が建立した釈迦生誕地を記す石柱、仏塔、奉献塔があり、おごそかに見学して回る。マヤ堂は、BC3世紀頃創建されたといわれ、全日本仏教協会支援のもとルンビニ・デべロップメント・トラスト、ネパール考古局の手で創設当初まで発掘調査が行われました。現在、私達は発掘調査後に大きな建物に囲まれた貴重な遺物を鑑賞する事ができます。 |
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マヤ堂の遺構を囲む現在の建物と池 |
カピラ城跡、釈迦が出家した門の前にたたずむ 参加者一同 | |
PM3:30、ルンビニから西北29kmの距離にある、釈迦が青春時代を過ごしたカピラ城を訪ねる事とする。農耕地の村々を抜け、車で小一時間走るとカピラ城跡に辿り着く。 カピラ城は、1901年考古学者ムケルジ−氏により遺構の全体図が示された。城跡は、南北約500m、東西約450mの長方形状を呈し、レンガ又は土塁で囲まれていたという。 釈尊当時の遺構は、地面下約2.5m付近に埋もれたままとなっている。一部発掘した現場の説明を聞き、さらに内奥に向かいおそるおそる敷地上を歩くと、塀又は建物の当時の遺構が地表に現れていて、そのレンガに触れる事ができる。 私達は、釈迦が苦悶した青春時代のまさにその場所に立ち、2500年前、門を出でてシッダールタ王子が出家を決意し、悟りを開き仏教が生まれたことを思うと、それが現在に至るまでアジアの人々の心のよりどころとなり、2000年以上世界の文化の発展を築いてきた事をあらためて思うと、限りなく深い感慨を覚えてしまうのでした。 PM6:30ホテル・ニルバナに帰館する。全員で夕食を摂り、ビールで疲れを癒しながらも、どこか感慨に浸っている夜だった。 1月4日バイラワ空港からの飛行機離陸まで時間がある為、私達は、ルンビニの仏教公園都市に向う。この公園都市作りは、元国連事務総長であった故ウタント氏の提唱により進められ、世界各国から僧院、寺院、仏塔の建築が、互いの国の友情と平和を願いつつ進められている。広大なルンビニのマスタープランは、日本人建築家丹下健三氏の案で、この地を世界規模の聖なる場所にすべく考案されました。 |
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ミャンマーの仏塔 |
ネパールの仏塔と僧院 |
各国の僧院、寺院を歩いて見る | |
私達は、広大な土地の為、車で各国の建物や敷地を巡る事にした。ミャンマー、タイ、中国、台湾、チベット、ネパール、スリランカ、ベトナムそして日本の仏塔や僧院、韓国は中国の隣に位置し、壮大な建物を建築中であった。
現在、釈迦誕生の地で各国の協調が友情と信頼を生み出しています。ルンビニは、世界の平和の象徴として、お釈迦様の教えがここに生かされています。
昼前の飛行便でカトマンズ空港へ帰還する。大きな荷物は、今日の宿泊先ナガルコット(2175m)の丘に建つホテル、クラブヒマラヤへ運んでもらい、私達は手荷物で、旧名ラリトプール(美の都)と呼ばれるパタンの街へ向う。昼食は、世界文化遺産のパタンのダーバースクエアー(旧王宮前広場)を一望するレストランのベランダで摂ることにする。メニュ−は、ネパール料理のダルバートだ。皆、ネパール香辛料にも慣れてきて、ぱさぱさ米にダル汁をかけ、カレー味の鶏肉をかじり、美味しそうに舌づつみを打つ。 |
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世界文化遺産パタンダーバースクエアー |
シバ神とパールバティ神妃が彫まれた建物の 屋根を支える方杖 | |
目の前には、中世建築物の極致というべき旧王宮の建物、寺院が建ち並んでいる。その北後方には、晴れた青空に真白なランタンリルンが望まれる。パタンは15世紀〜17世紀のマッラ王朝時には三王国の一つだった。歴代王が建造、増築を繰りかえし、特に17世紀建造のインド・ムガール建築の影響を受けた石造りのクリシュナ寺院が特異な美しさを誇っている。
ダーバースクエアーから北へ徒歩10分のゴールデン寺院を訪ねる。本名は、ヒマラヤ・バルナ・マハビハール。起源は12世紀にさかのぼり、パタンに住むネワール族の仏経寺院の総本山ともなっている。外壁一面に、如来像や菩薩像が光り輝いていた。 |
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ダーバースクエアーを歩く一行 |
ダーバースクエアーの石像 |
参拝者の多い石造りのクリシュナ寺院 | |
また、ダーバースクエアーから500m東のマハーブッダに訪問する。1585年頃、インドのブッダガヤに建つマハーボディ大塔を模して建造された千仏塔だ。塔の姿形は、シカラ様式で、高さは25m、テラコッタに彫刻された仏像の精巧さと芸術性にあらためて目をみはった。私達は、奥の家の屋上に上り、外壁に千躰の仏像が飾っているマハーブッダの全容を望んだ。奥まった町家の中に太陽の光を浴びて建っていた。 |
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マハーブッダの千仏塔 |
テラコッタに彫刻された芸術的な千体の仏像 | |
パタンの町家は、細い路地に入っていくと、四面を町家で取り囲まれた小さい広場に出る。そこには井戸があったり、子供の遊び場にもなっている。旧市街はどこでも、四角い小広場や、内庭的な空間部を中心に1ブロックになっていて、それらが接合しながら町並へと発展していく。古い町並を覗くと、同様の構造をもって建ち並んでいる。
PM3:30パタンの街を後にして、東方に聳えるナガルコット(2175m)の丘に向う。私達の車は、町並を抜け、段々畑の村を通り、エンジンを唸らせて山腹を巻く蛇行道路を昇る。日の入り前のホテル到着に皆の気持が焦った。PM4:40、ようやく丘の上に建つホテルに到着。皆手荷物を抱えたまま、ホテルの広いベランダに走る。ここからは夕照に染まる7000m級のランタン、ジュガール、ロールワリンの峰々を望むことができる。夕日が西に傾き、次第に太陽の光が失せていく。ヒマラヤの峰が薄紫色へと変色していく壮大な景観にしばし感傷的な気持を抑えることが出来なかった。 夜、夕食時にネパ-ル音楽の生演奏を聞く。リズムカルなのに哀愁漂う音色を奏でる。ほろ酔い気分で踊る人、音楽に聞き惚れる人、味わい深いひと時だった。 |